(xxx) 3度目の 「六つのべからず」

  (680) 3回目の 六つの 「べからず」

  先週のヒヤリハット・レポートから一例を示す:―― 

♣ 「私は K さん( 96 歳女性)を夜間のトイレ付き添いをしていた時、外で人声とアラーム音が鳴ったので、座を外してこれに対応した ―― アラームは 「不眠」 の訴えだった――対応を済ませ 3 分後にトイレへ戻ってみると K さんは便器の外に転倒、強い痛みを訴えていた。救急搬送で病院は運ぶと、診断は 「大腿骨骨頭骨折」だと判明した()。

♣ 近日の夕刻の申し送りでは別の事件が報告された:―― N さん( 87 歳男性、アルツハイマー)は「ずり落ち・尻餅」の多い人で気をつけていたが、夜間のトイレ・ケア中に、遠くから呼び出し音があったので手助けにおもむき、すぐ帰ってみると N さんはトイレの傍でもう転倒していた … 幸いに怪我はなかった。トイレ内のケア中には外部対応に気をとられてはいけない、と教育を受けていたのに、迂闊(うかつ)であった。

3度目の「六つのべからず」

♣ このような報告は後を絶たず、悩みの種である。さて、「六つのべからず」 をお話しするのは これで 3 回目となる … 現場の職員にも言い分はあるだろうけれど、それほどにこの問題は深刻なのである。おそらく、各部署で語られた教訓はいっぱいあると思う。その教訓を 門外不出 にせず、集めてみんなの教訓にしたいものだと考える。ごく単純ながら、ここに復習してみよう。

ぐずぐず すべからず :――ナースコールが鳴る… これで何度目か?居室に行ってみたら P トイレ前で A さん( 98 歳女性)がベットの傍に倒れていて痛みを訴える … 同輩の協力を得て救急車を呼ぶ …左大腿骨骨頭骨折の手術となる()。今まで何度も転倒で呼ばれたかただったが、今回が “万年目の亀” 1 ) となってしまった。

後ろから声を掛けるべからず :――後ろから名前を読んで声を掛けたら、O さん( 84 歳女性)は、振り向きざま ゆらりと横転、左上腕骨折、病院で手術。お年寄りの三半規管の機能(平衡感覚)は落ちていることが多い。老人には加齢現象として「無自覚の微細骨折」が必ず存在し、それがちょっとした機会に本物の骨折に至る。まさに ”万年目の亀” 2 ) であって、不運を嘆かないようにしよう。

まさか ! と油断すべからず :――デイサービスの朝、流れ作業で送迎バスから玄関へ人の流れがある。お一人の M さん( 90 歳女性)が玄関のマットの縁につまずいて転倒、救急で病院の診察により 「鎖骨」 にひび ! .骨折でなく「挫傷」ですみ、ホッと胸をなでおろす。畳の「縁」の足を取られて転倒する老人はよく知られているが、玄関マットにも同じ問題があった !

外部で呼ばれても、持ち場を離れるべからず :―― Y さん( 88 歳女性)のトイレ・ケア中、遠くから呼び声がする … 氏に「動かないでね ! 」と念押しして、呼ばれた声のほうに行き、対応をすませ、元のトイレに戻ったら、氏はその場から移動していて、しかも転倒・骨折 ! … 考えてみれば、認知症の人に 「念押し」 しても “聞く耳” はなかったのだった。

押し問答すべからず :―― D さん( 79 歳女性)のトイレ介助、氏は私の同室を拒否 … 危険を感じたものの、やむなく氏を一人にして、トイレの扉を閉めたところ、氏は中ですぐに転倒、大腿骨骨折。私は責任を問われてしまう ――本人の意思を尊重したら事故になった … どうすればいいのだろう? 

♣  日頃 杖歩行でも、安心すべからず :――デイサービスが終わり、腰かけて帰宅順番を待っている時、A さん( 94 歳女性)は、ちょっと目を反した隙に、突然立ち上がり、一人で杖歩行を初めて 3 m 行ったところで、杖に足をからませて転倒・左大腿骨の骨折。ご家族は施設内の骨折であることを理由に 許して下さらず、医療費の全額支払いを求めた。

①~~⑥ は 何とみんな高齢の女性の認知症であった ! 認知症の最大の特徴は「意思が通じない・ 待てない」事であろう。こちらが言った事は相手に通じていないし、時間の観念が消失しているから 1 秒も待てず、発作的に立ち上がり転倒だ。初心者は高齢女性の 「このリズム」 を早く習得して欲しい。

事故への対応 (A) いちはやく上司へ相談、救急車も考慮、 (B) 家族やキーパーソンへ連絡、 (C) 家族への報告は “事故の事実だけ” を伝えること … 余分な解説や状況判断を付け加えてはいけない。個人の判断で善意に伝えても間違っているかも知れず、まして弁解やウソは絶対に言ってはならない――裁判沙汰になると苦境に立たされてしまう。

♣ 参考までに数値を述べる。パールの特養では大腿骨骨頭骨折の頻度が … 70 歳代で 20 %、80 歳代で 30 %、90 歳代で 60% … 90 歳代の過半数は骨折しており、さらに左右の両側骨折はすべて 90 歳代。つまり女性は高齢になるにつれ、まずは骨折する運命にある、という覚悟で介護に当たらねばなるまい。それだけに 「六つの “べからず” 」 という教訓は 「介護の金言」 とも言えるだろう。

♣ 人間は、動物の中で ムリな 二足歩行 を選択した生き物…でもそれが役立つのは還暦の 60 歳頃までだ。戦前は人生 50 年で、還暦 60 歳を遥かに超えた 90 歳代の二足歩行の経験も習慣も無かった。本人たちはいつになっても自分は歩ける、と錯覚し転倒・骨折をする。現場での 色々な教訓は教科書に書いてないから、上記の 「べからず」 を上手く介護に活かして欲しい。2133字  

要約:   介護をしている目の前で骨折を起こした 2 例を述べた。 初心者でなくても、我々はつい気を許して骨折事故に出会ってしまう … 事前に注意する 「六つの “べからず” 」を述べた。 超高齢で “二足歩行” をする経験は、人生 50 年の昔にはなかった … 甘く見て些細なことで起こる骨折は後を絶たない … “べからず” を心に銘じて欲しい。

参考: 1 ) 新谷: 「万年目の亀」::; 福祉における安全管理 # 1、2010. 2 ) 新谷: 「しつこい腰痛と微小骨折」、 ibid # 647, 2017.

(676) 介 護 寿 命 を 短 縮 す る

(676) 要 介 護 期 間 を 短 縮 す る  
    
 厚労省やマスコミは 近年 「全寿命は変えないで、 介護期間だけを短縮する方法」 を手探りしている。ここでお願いながら、頭の混乱を避けるために、「平均寿命」を「全寿命」と置き換えることを お許し下さい。

♣ 問題になっていることは、日本の全寿命は世界一長いが、要介護期間もなかなか長いことだ(図1)。ここで述べる平均寿命(全寿命)とは、健康寿命と介護期間の合算であり、それぞれ男女差があり、男性・女性はそれぞれ介護期間が 9 年・ 12 年ある。

♣ ここで問題になる 「要介護期間」 の定義は三つあり、日常生活で他人の援助が必要となる「依存寿命」、 「護保険のサ-ビスに頼る要支援1以上」、 「寝たきり」の病気になった状態、の三つである。

介護期間を短縮する

♣ しかし ① ② ③ は 互いに重複する期間があるので、客観性のある ② を介護期間とすることが多いようだ (中には要介護 2 以上と定義することもある)。しかし北欧諸国では 「寝たきり」 の存在を受け入れないので ① と ② のみが対象となる。

♣ 戦前の日本の全寿命は 50 歳、他人の手を必要とするような (老人のオムツ、食事介助など)はほとんど実効は無かった。 の 介護保険も無かった。 の「寝たきり」は主に結核があったくらいで、その経過も長くはなかった。したがって、戦前の人々は主に健康寿命のままで世を去った わけであり、介護需要があってもその期間は短く、「全寿命」も「健康期間」だけに限定されていた。

♣ 現在でも健康寿命だけで 男 71 歳・ 女 74 歳であり、戦前よりも 20 年以上増えている ( 図 1 )。 もし今の時代が 70 歳近辺で逝く時代だとすれば、皆さん方は不満だろう。健康寿命の後に介護期間が加わってこそ、現在の日本は世界一の長寿になっているのだ。これはパラドックス (逆説) のように聞こえるが、健康寿命が たとえ今のままであっても、介護期間が長びけば、その分だけ 死期 も だらだら 延びる。

♣ ところが、介護保険の導入でせっかく伸びた介護期間だが、それを短くできないものか、と世間は思い始めた。その主な理由は 、老人が増え過ぎて介護費用が莫大になったこと、さらに 介護期間の人々は社会貢献が乏しく、不健康になっている、と考えるからだ。

図1 で分かるように、女性は 12 年ほど要介護の「他力本願」で生存した後 世を去る ―― 他力本願の期間が世界一長い ! ここに手を付けよう … そんな考えがある。その根拠は、ここ 10 年間で 「介護認定者数」 は 2.2 倍に増えたことである。別な言葉で表現するなら、病弱な老人が 2.2 倍増えた訳だ。仮に老人が増えても「健康」であってくれさえすれば、要介護の人達は増えない。

♣ ここで 「人々の生活と福祉の関係」 について考えてみよう。戦前は「人生 50 年」、つまり健康寿命の 50 年が終れば逝く、のが普通の運命であった。だけど、戦後 生活水準が上がって「衣食住」が豊かになるにつれ、従来 考えの外であった「長生きしたい」という夢を追うようになった。その夢は確実に満たされるようになって、人々は長命になって行く。

♣ 世界の人々の「長寿曲線」を眺めると、日本は先進諸外国の一番下から、見る見るうちに登って 1985 年には世界一の長寿国になり、今でもそのレベルを死守している。それは誇らしいことであるけれど、人間に限らず「動物の寿命」というものは おのずと「種 (しゅ) 固有の限界」を持っているものだ

♣ 人間の寿命限界はどこにあるかは、戦前には分からなかった。が、日本が世界一になった頃から、高齢老人の不思議な痴呆現象が日本社会の中で気付かれるようになった ―― その典型が 有吉佐和子の作品 「恍惚の人」 1972 年であった。

♣ つまり 「長生きし過ぎた」 と解釈されるような痴呆老人の社会問題が積み重なってきたのだ。かくして 2000 年には 「介護保険」 が始まり、有効な対策とされた。ところが 介護期間はどんどん延び、ついに世界一長くなってしまった。これは、福祉対策と長寿実現が悪循環の関係に陥ったから、とみられている。

介護期間を短縮する

♣ この問題は介護期間を減らさなければ解決しないのか? いや、健康寿命を延ばすことで代用する方法も叫ばれている。しかしながら、事 これに関する限り「医療・福祉」はもう限度いっぱいの状態であるから、それを満たす唯一の方法例として図 2 で示すような 「個人的努力」の 10 ヶ条をお示しする。

♣ この 10 ヶ 条 を ① から ⑩ まで丹念に検討してみよう ...... この 10 ヶ条 が満たされれば、全寿命を維持しながら健康寿命を延ばせるし、所定の夢が成就する、と 期待される。だが、あなた や ご利用者は この個人的努力の 10 ヶ条 をどれほど多く満たせるだろうか?

♣ 人間の「天然寿命」は 具体的に何歳 なのだろう ?  完璧を求めず、ほど良いところで手を打つ必要があるのではないだろうか? 1944字

要約: 

男女の全寿命 (= 健康寿命+介護期間) を眺め、介護期間が相対的に長すぎるのではないか?の印象があった。 全寿命が長いことは人々の希望に一致するが、国は介護期間の短縮を念頭に置いている。 私どもは その案よりも、健康寿命を引き延ばす別の案を考え、図 2 の 10 ヶ条で検討した。その案の有効性は、むしろ読者ご自身が判定なさるだろう。

参考:  新谷:「ライオンの3 倍も生きる」; 福祉における安全管理 # 616, 2017.

職員の声

声1: さんざん 「吸う 飲む 食べる 遊ぶ」 をやったあと 65 歳になって「健康」寿命を考えても もう遅いでしょう?(答: 考えないよりマシか? … しかし、65 歳は すでに脳卒中・ガン年齢だし、続いて認知症だ …若い頃は 無関心だったものなー)。

声2: 重介護・寝たきり の介護期間を短縮するって、日本では難しいと思うけど(答: スエーデンでさえ難しい…だから そもそも彼らは 要介護 4 ・ 5 の分類を作らず、したがって寝たきりはいない、と報告される)。

声3: 全寿命 が健康寿命であれば良い訳だ ... 昔はそうだったのでしょう?(答: ならば、女性の健康寿命は 74 歳だから、その齢でピンコロ(頓死)するのが理想となる。だが、誰もピンコロする気はさらさらなく、特に認知症が加われば、この後の全寿命を豊かな介護の下に過ごす… それが現実だ)。

声4: 日本の 「豪華な介護の長期化」 は生命の尊厳には役立つが、財政は誰が負担するの?(答: 「借金」 と 「若者依存」 以外の方法は無いだろう。 一般に、「社会の進化」は 「適者生存」 の原理で進む。しかし日本では「適者となった老人」はもう子を産めず 「多々老少子化」 し、世は進化の路を離れて退化する方向に進むのか?)。

(671) 救 急 車 を 20 回 呼 ぶ

(671) 救 急 車 を 20 回 呼 ぶ
    
  皆さん方 は、高齢者の突飛 (とっぴ)で実力行使的な行動を目前に、唖然(あぜん)として手をこまぬいた経験はないだろうか?

♣ 手を こまぬいた理由として 「この方にも私と同じように人間としての尊厳があり、彼の行為は自分で十分考えた上で、理由があっての行動であ り、それはそれなりに尊重すべきである」 という 人間尊重の姿勢 である。パールの「三つの基本理念」を思い出せば 「尊厳・個性・相互の愛」であり、相手が誰であれ、この三理念は守るべきであろう。今日は そのような症例を二つ ご紹介する。

♣ 症例 S.氏 ( 91 歳男性、要介護 1) は独居。妻は 30 年前に他界、子供はなく同居の姉は半年前に他界。その頃から急に情緒不安定となる。主な症状は、便秘が進みトイレとベットの間を往復、不安気分で睡眠障害があり、抑えきれず夜になると自分で救急車を呼び病院を受診。

♣ 診察・検査で、どこを受診しても異常がないと言われるが、更に都心のもっと大きい病院を救急受診し、やはり入院治療は適応とならない。これを半年の間に 20 回 繰り返した。たまたま、パールのショート・ステイの話が進み入所した。

♣ 診ると、ナース・コールを押しっぱなしだ。トイレの誘導を頼む、その後すぐにまた誘導の重なるコール。浣腸を希望、自分の傍から離れないで欲しい、腰を押して欲しい . . . その状況を観察すれば、この人の問題点が見えて来た。

♣ 施設は夜間 職員一人で 20 床の対応であり、このままではトラブルが倍化してくる。そこで、ご親戚に連絡、先方様のご希望により専門の老人ホームに移られた。

♣ この状況は 精神科嘱託医K 先生にお伺いし、ご意見を伺った:―― 年齢を聞かないで症状だけを聞けば 「強迫神経症」 かも知れない。 救急車は一回 ¥45,000 経費が掛かる。これをタクシー代わりに 20 回 利用すると、莫大な経費の乱用になるが、それを遠慮して救急車をさし控えるような配慮はない。 強迫神経症は若年者の脳の病(やまい)である()。しかし、この方の年齢が 91 歳であることを知ればこの病名は消える。つまり 91 歳の脳は 91 年間の人生を経験した 「一丁前の人間の脳」のハズだ。

救急車を20回呼ぶ

♣ その脳が(ことわり) ある説明や助言を無視し、救急車を呼び、これを繰り返し、学習することを知らない ―― この状態は 脳の理解力レベルの低下、つまり 「進行した認知症」 と見るのが適当である。  治療は精神科医の下で 抗不安薬のスタートの適応だろう。

♣ 皆さん方の経験の中にも、お年寄りの 実力行使的な 「困ったちゃん」 に出会うことがあるだろう。この例に似た例を もう一つ挙げよう:―― デイ・サービスで 95 歳のご婦人、トイレに行って 2 ~ 3 分後にまたトイレを願望 ! 排尿はほとんどなく、それが午前中 続く。その間、職員はトイレに付き添い、他の仕事はできない . . . ご婦人の「聞く耳を持たない不安」 を取り除くのは困難至極であった。

♣ 多くの高齢の認知症では「 感謝・迷惑・思いやり 」 . . . そういう人間に特有な抽象観念は一切消失しているから、注意して対応を考えよう。認知症で大脳が壊れると他人のことを慮る(おもんばかる)知恵が出てこない。つまり 「人格の崩壊」 であり、大脳がない状態、すなわち 「蛙のような状態」 に近づく 1 ),、2 ) 。蛙に説法しても通じるハズは無い。

♣ 認知症は言葉の響きから、 もっと高級な病気だと思う人があるが、正常脳の人と対等・平等な尊厳ある扱いをするのは「間違い」である。たとえ「ワシを気違い扱いにするのか ! 」とわめかれても、おびえてはならない。きちんと精神科医に相談する姿勢が正しい。認知症の人に親切心を期待してもムリだ ! また、その逆も真である。つまり、親切のできない高齢者を見たら 認知症を疑うことを忘れてはならない

♣ 同じ「病気の脳」であっても、「そこに実在する脳組織」なら治療法の開発余地があるが、そこに存在しない脳 (つまり、脳細胞の脱落 = 認知症)を治療することはなかなか困難である。

♣ 教科書で学ぶ認知症の症状は たいてい 「他人迷惑」 について詳しい説明がない。そこで、今日は皆さん方の感想を述べて頂きたいと思う。1691字  

要約:  救急車を 20 回呼んで、21 回目にパールショートステイに入所した 91 歳の男性の事例を述べた。 症状としては 「強迫神経症」 が疑われたたが、91 歳の社会経験をした人が脳の理解力と他人への 「思いやり」 の完全欠如がみられ、進行した認知症であった。 認知症は高級な病気などではなく、「ワシを気違い扱いにするのか ! 」とわめかれても、おびえてはならない。きちんと精神科医に相談する姿勢が正しい。

参考: 1 ) 新谷:「蛙の認知症」;福祉における安全管理 # 150、2011 2 ) 新谷:「親切な蛙」; ibid # 145. 2011..

職員の声

声1: 「またこの人か?」 と救急隊でも困っていた人でしょう? … 「おおかみ少年」みたいに思えるけれど、認知症であれば学習なんて出来ないしね(答: 狼少年の物語は “認知症” なんて無かった昔の物語だ … 老人社会は複雑になった)。

声2: この方が、もし精神科入院にならなかったら、次々と病院巡りをしただろうか?(答: もちろん、そうだろうが、むしろ、ここまで巡った過去 20 の病院が彼を怪しまずに放免したことの方が不自然だ … どこかで 「認知症 ! 」 と判定されるべきだった)。

声3: 高齢者の問題行動の場合、まず認知症を考え、受診を勧めるのが良いのか?(答: 昔は ガンコ爺 と言う言葉が使われていたが、今なら 2 ~ 3 の質問で、たいてい 「認知症」 と判る)。

声4: 認知症の対応は難しいが、いずれ我が身の将来と思うと、感慨深い(答: 一般論で、 85 歳人口の 4 割、100 歳で 8 割、110 歳なら 全員 が認知症になる運命だ … ワシは違うだろう、は 浅はかな希望に過ぎない)。




(669) 親 孝 行 て 何 だ ろ う ?

(669) 親 孝 行 て 何 だ ろ う ?  

  笹川良一氏は 「日本船舶振興会会長」、衆議院議員の右翼活動家でもあり、1970 年代に「競艇」で財を成した。世界一の金持ちファシストと自称し、「一日一善」・「火の用心」 を標語にして、テレビ界でも名を知られた人だった。

♣ この方の有名さを高めた標語に 「お年寄りを大切にしましょう」 がある。下のは彼が 59 歳のとき 82 歳の母親テル をおんぶして四国の金毘羅(こんぴら)参りをした時の様子を示す銅像で、785 段の石段を登り切ったと伝えられる ―― 大切な母親に 石段を登る苦労を掛けまいとする良一氏の けなげな努力が伺われる。

親孝行て何だろう?

♣ でも、皆さんは どう思われるか? 母親は息子の好意を感謝こそすれ その危なげな足取りを不安に思っておられたのではないか? 銅像を見ると、顔や体の大きさは母子ともにほとんど違わない ―― つまり、軽々と母親を抱え上げて坂道を登ったのではなく努力しながら 一歩一歩石段を踏みしめて 金毘羅参りをしたのである。この銅像を見ると、良一氏の 「言わんとするところ」 が良く分かるではないか? ―― お年寄りを大切にしましょう、とは このように ‘けなげな’ 献身で実行するものなのだ、との見本を示す !

♣ 今から半世紀ほど前までは、親の面倒を最後まで看るのが子の当然な勤めであり、初老期の子供たちは「親孝行」をこの銅像の有様のように捉えていた()。それは “儒教” (じゅきょう)の教えに従っていたのである。

♣ 儒教は第一に 「」 を教える。「孝」 とは両親に対して没我(ぼつが)的な献身を示す。親あっての子だ; 子としてみれば 親から生を受けた御恩は 山よりも高く海よりも深い 。親の安全を守り抜くために子は死をも怖れてはならない; これが儒教の教えであった。つまり、「子は親に尽くすために産まれてきた」 のである。笹川良一氏の銅像は このことを如実(にょじつ)に表わしている。

♣ ところが現在の社会はこれに疑問を投げかける。「孝」 の思想を紐解いてみれば: ―― 生物一般で通用する親の自然行動は 「命を懸けて子を守る」 である;これに対して儒教は 「命を懸けて親の老後を守る」 だ。この教えは「生命進化の道」から明らかにはずれた道であって、もしこれを続ければ 子々孫々の将来は滅亡となってしまう。

♣ 50 年前の笹川良一氏の時代には、まだ儒教に立脚して ‘親を看る’ ことは当然であっただろう。しかし、今は違う ! 何が違うか、その3点 を見ると:――

儒教の「孝」は 2,500 年も前の中国で発生し古代社会に適応した概念である。その頃は人生 50 年に満たず、歳をとった親の口を潤す人は子供しかいなかった。福祉社会の現代の目で見れば 状況はすっかり変わっている。 お年寄りを人口の観点で見ると:―― 50 年前なら老人の頻度は全人口の 2 ~ 3 % に過ぎず、老人は稀で尊い存在であった。しかも彼らの年齢は還暦( 60 歳)前後で おおむね自立していた。

これに反し、社会が安定した現在では、老人の人口は今 10 倍の 27 %、やがて 40 % に膨れる勢いだ ―― つまり人口の半数近くが老人となり、しかも彼らは元気な 50 歳でなく老衰した 90 歳であり、自立はできず、生活を子や孫の肩に依存する。

♣ 老人問題ではしばしば北欧、特にスエーデンの暖かい事情が語られる。しかしながら かの国では 不思議なことに老人の「食事介助」 をしない。したがって 「要介護 4」が少なく、「要介護 5」は実質的に該当者がいなくて 「寝たきり」 も存在しない。それがスエーデンの「老人に対する生命の尊厳」の表れであろうが、国が違えば “食介の事情” もこんなに違ってくる。

♣ 日本では 「親を大切にしましょう」 という標語は今なお堅実に残ってはいるが、笹川氏の銅像が示すような 「誇張」 はもう影をひそめている:―― だって半世紀前に比べて 10 倍にも増えたお年寄りを おんぶして 785 段の石段を登る子供はどこにもいないだろう。親だってそんなことを望むとは思えない。

♣ 戦後 70 余年、「孝行」を思うにしても、今の親は昔と違って、親ではあるけれど “卒寿 90 歳” を越える 「祖父母」 と同格の年配だ。介護保険時代の中、子は子でありながら、すっかり成長した社会人に育ち上がって、子というよりも親に近い。かくして、同時に生存する 爺婆・ 私ら夫婦・ 孫同然の子たち … 年齢の変わった 三世代 の間では、誰が誰に孝行をするのが自然 なのか、その感覚には戸惑うばかりになった現在である。1839字 

要約: 「お年寄りを大切にしましょう」という 古い標語 は今なお生きている。 昔「数が少なく尊い」のがお年寄りだったが、今 「少なく尊い」のは「子供」に変わった。 現代は 祖父母同然の親、孫同然の子、そして自分たち夫婦、この三世代が相互の間で新しい孝行関係を模索しているのではないか。

員の声

声1: 今でこそ、100 歳のお婆さまを介護する お孫さんの姿 は微笑ましい(答: これは親孝行ではなく祖母孝行だね … 昔の婆さまは 50 歳くらいだったから まだ元気で、孝行を受ける齢ではなかった)。

声2: 高齢者への孝行は良い習慣だと思うが、何歳まで行えば良いのか?(答: 2,500 年昔の孔子さまの時代なら 50 ~ 60 歳くらいで終わりだったろう … もし孔子さまが現在の 80 ~ 100 歳までの親孝行をご覧になると きっと腰を抜かすね)。

声3: 孝行する子の齢が 70 歳以上の高齢であることも少なくない現代 (老々介護)、さらに老妻や子供に孝行する人もある(答: 孝行を発明した元祖の孔子さまビックリだね … 孝行というより むしろ現代風の愛情と言うべきか)。

声4: 時代が変わって:―― 「親孝行 するよりも されたい 私なり」 (答: 私はもう老人なのに、我が親はまだ生存中で気が抜けない … 私の子はもう 30 過ぎたし、疲れた私が孝行をして貰いたいほどである)。

(668) 古 代 人 と 福 祉 心

(668) 古 代 人 と 福 祉 心  

「心って何ですか?」 と聞かれるとなかなか返事に窮する。

♣ この問題を軽くするために 「自分の心」 と限定すると、たぶん 幼児の頃から心はあったと思う。では 「人類の心はどれ位昔からあったのだろうか?」 との問いに対しては 再び 難しくて返事をしにくい。

♣ ヒトは 500 万年ほど前、アフリカで生まれたと言われるが、その頃 たぶん心を持っていなかっただろう。人間も赤ちゃんの時にはきっと 「心」 を持っていないだろうし、意志疎通のできない「認知症」にも「心」があるかどうか分からない。それは 蛙や牛に心が無いだろうと思うのと同じである。

♣ 養老孟司さん(元東大解剖学教授)に尋ねると 「心と大脳は同じものの二つの側面である」 とおっしゃる。「脳の表面には電気が走り回っている; 大脳はいろんな情報を集めて 「心」 を紡(つむ) いでいる」 とのこと; つまり 心 = 大脳の電気だろうか。問題は小さな動物の脳ではなくて、ヒトの持つ 「大脳」 であり、したがって 心は並みの人類だけが持つもののようである。人間であっても、大脳機能が失われた 「脳死」 の場合には 「心」 は無いとみなされる。

♣ イラクとイランの北部に 「シャニダール」 という地域がある。150 年まえの19 世紀、考古学者たちが そこの洞窟を発掘していると、ヒトの骨が見つかった。推定の時代は約 6 万年まえ。その時代なら 現在 のヒトではなく、ネアンデルタール人の骨であろう。

♣ よく見ると、骨の間に 「花の花粉」 がいっぱい 化石となって散っていた()。その花粉の花は現在でも周辺に見られるものと同じだそうだ。つまり、ヒトの先祖であるネアンデルタール人は「死者を悼み、花を捧げる習慣があった」と解釈される。このことから、ヒトの「心」は 「少なくとも 6 万年まえからあった」と想像される。

古代人と福祉心

♣ さらに調べると、その周辺から 「歯のない老人の顎の骨」 が 多数見つかった。「もし猿ならば」、歯が無くなると死んでしまう。つまり、歯が無くても生きて歳をとることができたことから、ネアンデルタール人は弱い老人を助ける心、つまり その頃に「福祉の原型があった」と言えるだろう … サルにはそんなことは出来ない。考古学者とは なかなか良い事を教えてくれる。

♣ さて同じ 19 世紀で特筆すべきことは チャールズ・ダーウィン が 「進化論」 を発表したことである。進化論を煎じつめて表せば、「適者生存」 の一言に尽きる … つまり、環境に適応した者のみが子孫を残して繁栄することが出来ると言う。確かに、子を成せなくなった老人は、その時点で 「適者の条件に合わなくなった存在」 になるが、老人は どのようにして「自然の法則」・「進化の原則」の中で生きられるのか?

♣「自然の法則」 とは、ヒトが手を加えない限り、状況は一番深い無秩序状態に陥る、と言うものだ。言ってみれば、道路や家が目の前にあるのは、ヒトが手を加えるから存在できるのだ。人間以外の動物が、もし子を成なさず、子孫繁栄に手を貸さなくなれば、土に帰る運命しかないのである。

♣ 「進化の原則」 というのは、“子を産み終わった動物は世を去る” という遺伝の原則だ。また生命で も ”永久不変” というものはなく、絶えず 少しずつ “適者生存” の原理に従って子孫が変化して行く、ということである。だから、6 万年前のネアンデルタール人は今は存在せず、少々進化した ヒト がいるのみとなる。

♣ にもかかわらず、「心の始まり」 は 彼らから私たちに受け継がれたのである。「死者に花を捧げる」 とか、「歯の無い他人を助ける」 などの行為は「自然の法則」・「進化の原理」に違反しているように思われる。だが、それこそが人間の特徴であり、「サル」以下の動物なら、素直に 法則・原理に従って、土に帰って行くのだ。

♣ つまり、自然の 法則・原理 の優位性 などは ごく最近の学者が考えたアイディアに過ぎないのだ。ヒト以外の動物は たぶん 「心」 を持たず、私どもから見れば 「何のために生きているのか訳の分からない一生」 を送るのだろう。しかし、ヒトには 6 万年の歴史を背景にした 「福祉の心」 があり、お互いが助け合って 仲良く生きるという心で繋がっているのである。

♣ 皆さん、老人介護の仕事の中で、もし何かの疑念が自分の胸の中に生じることがあれば、「福祉の心」はシャニダールの昔からあった、と思い出して下さい。 1901字

 要約:   人間の先祖は 500 万年前までに辿れるが、人の 「心」 の先祖は 6 万年前のネアンデルタール人の中に生まれたようだ。 死んだ人の体に 「花」 を添える、とか、歯がなくなって固いものが食べられなくなった人を助ける、と言う風習が彼らの中に見出された。 他人を助ける心は本来的には 動物には見られないものであるが、人間は独特な 「あわれみ助け合う心」 を獲得して、以後永く現在の 福祉・介護 の世界の創造に繋がって来た。

職員の声

声1: 6万年前のネアンデルタール人が既に「弱い人を助ける心・死を悼む気持ち」があったことを知り、これが福祉の始まりであることを知った。

声2: 動物の親が子をはぐくむのは「心」ではなく「本能」によるものか?(答: Yes ! 心は「大脳」( = 人間脳)にあるけれど、本能は「大脳辺縁系」(= 動物脳)」にあり、相互に無関係ではないけれど 異なるものである。動物脳の中には福祉のDNAが無い . だから動物は子の面倒をみるが親の世話をしない)。

声3:  ペットが人になつくのは条件反射か?盲導犬や「忠犬ハチ公」の場合、大脳の「助け心」があるのでは?(答: 上記 声1のネアンデルタール人の気持ちは “自分にとって有利な条件ではない” のに湧き起る大脳の心であるが、動物の場合は 「餌の有利」 が深い関係にある。

声4 : ヒトとチンパンジーでは遺伝子の違いはわずか 1 % しかないと言われるが、その 1 % の中に「心」があるのか?(答: その証明は難しい: しかしわずかな遺伝子の違いで 結果の大きな違いが生じるものである。ヒトの「二足歩行・火の活用・言語の習得など」、サルには決して出来ない事が人に出来るのは そのわずかな違いに基づくものだと言われる)。

参考:  新谷:「人間脳と動物脳」;福祉における安全管理 # 661, 2018.
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「ふじ」=新谷冨士雄
「ひろ」=新谷弘子

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