(667) 平 等 と 貧 富

   (667) 平 等 と 貧 富

  私はかって ドイツ の福祉施設を訪問したとき、とても キビキビ 働いている男子の若者たちが あまりに若いので年齢を聞いてみた。

♣ すると、その子たちは 18 ~ 19 歳、と答えた。若いのには訳があった。ドイツには 「兵役の義務」 があるが、個人の信条により 「兵役を拒否」 することができ、その場合には、2 年の兵役期間を 2 年半 の福祉施設従業で平等な義務 完遂ということだった。日本は原爆以後 72 年間、戦争による死者を一人も出していない。どちらの国も、ある意味で平等を評価していて、すばらしいことである。

♣ 貧富 とは、主に経済的な理由によって生活安定が揺らぐ様子を言う。

♣ しかし、どんな状態を貧富と言うのか、実際の判定基準は様々である。動物にたとえれば、猿や狼 に住む家はないが、貧富の問題もない。同じく、文明発達以前、一万年前の人の歴史には貧富の問題はなかった。つまり、貧富は 「人間の発達した脳」 が その後に こしらえた産物のようだ。

♣ 人間の歴史が始まっても 太古では、貧富が 「不当だ」 とは思われてはいなかった。だって、世の中は 基本的に空腹な人がいっぱいいたし、戦争で死ぬ兵士がいるのも日常のことだった。人生ってそんなものだ、と思われていた。

平等の幸福

♣ 今から 500 年ほど前 (織田信長の時代)、イギリスの トマス・モア が、「ユートピア」 (理想郷)という小説を発表した。彼はその中では ユートピア という島(図1)を想定し、「架空の理想」を描いたことで有名である。そこは 王様や農民の違い はあったが、貧富のない共産主義的社会であった。ユートピアの名称は、転じて現実には存在しない 「理想の社会」 をも意味するようになった。

♣ 200 年前までは貧富はあって当たりまえ ... それが はっきり 「不当なものである」 と位置づけられたのは、やはりフランス革命のモットー 「自由・平等・友愛」 からではないだろうか。基本的に 「平等であるべき」 という自由思想が発達したからこそ 「あなたの痛みは私の痛み」 にもなったのである。猿や狼 には平等なんて理想はなく、人間だって 「平等」 なんていう思想はごく近年の新しい産物だったのだ。

♣ しかし、文明の発達した近年の政治の中で、金銭所得 を統計的に見ると、「平等」の思想からは遠く離れ、現実には 5 % 程度の貧富の領域を無くすことなど できない。このことは、統計でいう 「頻度分布」 の図を頭に描くとすぐ分かる(図 2)。図 の ① ② では共に平均値は等しいが、分布の広がりは ② で大きい。近代政治は この ② を限りなく① の分布に近づけようとする。しかし、どんなに工夫しても、またどんな分布であっても、貧富の領域そのものを消すことはできない。それは人間自身に多様性があるからである。

平等の幸福

♣ また、人間の欲望というものは本質的に天井知らずで、生活レベルが いくら上がっても、それはすぐ 「当然」 とされ、従って社会の 「統計上の貧富領域」 は決して消えることはない。

♣ たとえば、江戸時代のお年寄りと現代の介護老人で、寿命はどちらが長いかを考えればすぐ理解される。現代の寿命は福祉政策のお蔭で、過去に比べて 2 倍に延びた ... だが、現代の長寿者はこれに満足していない。

♣ また、貧富の中央と末端の問題は どうしても消せず、現在ではその差の幅を縮める工夫の結果 、図 3下 のように、一番左端の部分を中央に寄せて 「最頻値」 に近づけることで問題を少なくするのが精一杯のようである。分布上に「裾野」が発生することを これ以上気にしても この問題はお金をかけて解決できる問題ではない。

平等の幸福

♣ トマス・モア のユートピアは、人は死ぬことなく、貧富の区別もなく 争いもない理想郷を論じた。私に言わせてもらえば、「統計的に全員均等な社会」 なんてムリである。区別もなく均質であれば、それは一本の棍棒 (こんぼう) のような分布であって、生命の本質である 「多様性」 は消え去ってしまうだろう。

♣ 私は、貧富とは心の舵取り次第で豊かさを感じられるものだと思う。仮に理想のユートピアであっても いざ住んでみれば、貧富の差があるこの世と同じように不満だ、と分かるのではないか。大事なのは、物ごとを適正に判断する能力、つまり “良識 (ボン・サンス) が必要であろう。

♣ 今の日本の福祉予算は 70 % が老人向け、4 % のみが子供向けであってバランスは 著しく老人優位 であるが、それなら老人は 「頭を転がして喜んでいる」 とあなたは思うか? 人々が求めるユートピアとは、つくずく、統計でもなく金銭でもない、人間臭い「展覧会場の平等」 のようなものだと思う。1827字

要約:  500年前、トーマス・モア は 「ユートピア」 という 「理想郷を描く小説」 を発表して世間の耳目を集めた。 現代の人々は それを参考にして、限りなく老若男女の平等と貧富を探索した。 人間が求めるものは 平等の元での多様性であり、それを一つの 「単純な貧富」として表現することは適当でないことが判明する。

(670) 利 (き) き 脳

(670) 利 (き) き 脳    

脳の活性を保つ秘密、などと謳う「本」は街の店頭に沢山 出ているが、その道の「専門家」が書いた本を見かけることは まず無い。

♣ 人気のある本は、「ボケてたまるか ! 」 とか、「物忘れから回復する本」 などのタイトルで人目を引き、右 (う) 脳を鍛えれば 多くの認知症を予防できる、などと唱えている。具体的な内容としては、「お手玉や知恵の輪を使った遊びをするのが良い」 などと書かれているが、 当たり障りの無い内容ばかりに思える。

♣ パールではデイ・サービスで 「右 (う) 脳訓練」を行っているが、齢をとっても脳の鍛え甲斐があるのだろうか? せめて、認知症予防に有効なのかどうかを考えてみたいと思う。右 (う) 脳や左 (さ) 脳の訓練が本当に役立つものなのだろうか?

♣ 日本では 人の 「右」 脳は 「情緒・空間・音楽」などを司り、「左」 脳は 「知能・理論・運動」 などを司る と言われる。右脳派の人は 「両手の指を組んだ時、右親指が上に来る人;または両腕を組んだ時、右前腕が上に来る人」 と言われる …。左脳派はその逆だ。あなたはどちらか?

♣ 世間ではさらに誇張され、芸術家の ミケランジェロ は右の脳が、科学者の ガリレオ は左の脳が著しく発達していた、などの風聞があるけれど、残念ながらそれには何の具体的な証拠がある訳ではない。世間の風聞とはそんなもので、誰かが突飛なことを言っても証拠と実績がない主張は頼りにならない。

♣ 事実を述べよう:―― 脳は、頭の右側にあるものが右脳・左側にあるものが左脳と呼ばれるけれど、両者は 左右を交差する神経 でガッチリ連絡されて 一つの 「利(き)き脳」になっており、左右のどの部位が何の脳活動を司るのかは、ほとんど分かっていない。言語中枢がしばしば片側 にあるくらいの違いはあるけれど、「利き」に対応するような 片側の 「利 (き)」というものはない。

利(き)脳

♣ にも拘わらず、「左脳派」とか「右脳派」というレッテルで人の性格を分類する習慣が世間には流行している。図 1 を見よう――この女の子は 熊人形 から逃げようとしているのか(左脳派)、それとも「立ち向かおうとしているのか(右脳派)。

♣ これは日本だけの 「お遊び」 かも知れないが、左脳派は 「論理的で計算力が優れている」 人の脳を代表し、右脳派は 「直感的で芸術性に富む」 と主張、上記のように ガリレオ(左脳派) と ミケランジェロ(右脳派) が元祖に据えられている。これは人の性格や心理を分類して遊ぶようなもので、ちょうど 「血液型」 で人の気質を判定するのに似ている。

図 2 の 「回転するダンサー」 をご覧あれ … この女性はクルクル回っているが、その方向は右回り?それとも左回り? お手元のパソコンで 「右脳 左脳 YouTube」 と入力すれば このダンサーが回って踊る様子が見られるが、見ていると、あるときは右回り・次には左まわりを し、どっちが本当なのか見ている自分でも分からなくなる。
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利(き)き脳

♣ 似たような 回転動作 を自分でやってみよう:――自分の胸のレベルで右手を水平にぐるぐる時計回りで回してみよう。その輪をだんだん上に挙げて行くと、それを見ている人は、輪の回転方向が時計方向から反・時時計向に変わって見えることに気付く――不思議な事だ。

♣ 誰でも知っているように、ピアノは両手で弾き、バイオリンも右手で弓を、左手で音階を決め、完全に左右の合作だ。あなたは たぶん右手で字を書く、しかし左利 (き) きの人なら左手で書く。中には黒板に書くときは右利 (き) き、字を書くのは左利 (き) き、という人もある(両利 (き) き)。さらに、文字を簡単に “左右 逆に” (線対称で)書くことが出来る人もある。私たちは誰でも 椅子に座って机の裏に文字を書く所作をすれば、何の努力もなく 線対称で 文字を書くことが出来る。

♣ つまり、「利 (き)」は生後 教育・習慣で得られるもの、しかし 「利 (き)」 については特別の教育の機会はなく、つまり自然の脳は左右が協力して問題をこなすものだと理解できる。別の例を述べれば、サッカーで眼の前に来たボールは、利き足 を選ぶ暇はなく、その時に一番適切と思われる足で蹴る…つまり、右脳も左脳も対等に選ばれる訳だ。

♣ 脳 トレは 「右 (う) 脳訓練・左 (さ) 脳訓練」に分けられるが、訓練するからには 右だけ・左だけ という訳にはいかず、左右 同時に訓練されてしまう。 子供は左右を理解するのに時間が掛かるし、大人でも 自動車を運転していて 「右折します」 と言いながら左に曲がる人もある。「左右の判別」 は、齢をとるごとに混乱するが (認知症の中核症状による)、なぜか「上下方向」 の区別には問題が起こらない。それくらいに左右の判別 は頭脳的・心理的に不安定であり、間違えやすい。

♣ ここまで考えると 本文の頭に記した質問の答 はもう分かる―― 脳は鍛え甲斐があるか? ➔ Yes ! 脳 トレは認知症の予防に役立つか? ➔ No ! 認知症は脳 トレに関係なく、脳細胞数の減少程度で決まってしまう。

♣ 上記の 「回転するダンサー」 のように、左回りでありながら右回りでもあり得るように、脳に関しても 「右脳と左脳」 はガッチリと協力し、利き脳の左右を判別できない臓器であることをしみじみと思い知るのである 4 ) 2151字  

要約:  人間の性格は「右脳派」と「左脳派」に別れる、という面白い説がある。 観察事実をいくつか眺めて見ると、人間行動の場合、どちらの説でも説明が可能である。 脳の場合には「利 (き) き脳はなく」、左右の脳がガッチリ組んで一つの行動を実行しているとみられる。つまり 右 (う) 脳訓練 = 左 (さ) 脳訓練である。

参考: パールの安全管理 1) 新谷:「筋 トレと神経」; 福祉における安全管理 # 199, 2011.  2) 新谷:「垂れ下がりを 防ぐ」; ibid # 159, 2010. 3) 新谷: 「サンタ」; ibid # 29. 2010. 4 ) Gemma Tarlach, " Was Science Wrong About Being Right ?", Discover. July pp. 64, 2018.

職員の声

声1: 認知症の予防に 脳トレが無効と聞きビックリだ(答: 今、認知症予防学会という学会さえある ご時勢だ … だが、認知症の本質は、糖尿病のような病気と違って 純粋な「加齢現象」 に近いものであり、加齢を予防する方法が本当にあると あなたは思うか?例えば、白髪・視聴力低下・顔の皺(しわ)を予防?)。

声2: 事故で右脳を怪我し、左脳のカバーで回復したという話を聞く… 認知症も人力で治れば有難いが(答: 脳の損傷は一部の局所だけ、これに対して認知症は 脳細胞 が大脳全体から広く抜け落ちる …つまり事情が全く異なる。

声3: 認知症予防の本は沢山あり、中には 「絶対に認知症にならぬ秘訣」 という本もある … 左脳派・右脳派も含めて皆 怪しい(答: 何が真実なのかの判断は その理論と実地を見て あなたが決める)。

声4: 楽器を奏でる人は 「全脳派」 と言える … 左脳作品と言われる 新幹線やジェット旅客機の気品ある美しさ … 右脳派の芸術デザインの機械産業界への寄与、これらを併せ考えると、右脳・左脳の違いは限りなく少ない(答: 確かに左右の脳は交差する神経でガッチリと 一つの 「利き脳」 に固められているよね)。

(689) 風 桶 (かぜ おけ)

    (689) 風 桶  (かぜ おけ)

 「風が吹けば、桶屋が儲かる」という話を知っているね 1 ) 。これを略して「風桶」 (かぜおけ) と呼び、医療・介護で 少なからず出合す お笑い話 である。

♣ 「アイスクリームが売れるにつれ、ビールス性小児麻痺が増える」 という説は、どうだろうか?これは 戦前アメリカで信じられていた実話であり、あたかもアイスクリームにビールスが紛れ込んでいるように受け止められるが、実際には両者の因果関係は全くない。しかし、統計をとれば 「どちらも夏場によく発生する現象」 として有名な民間の迷信だった。

♣ つまり統計分析で得られる 「相関関係」は 必ずしも「因果関係」 を示すものではないのである。「因果」とは、“原因に伴う結果” をつづめた言葉だ。「相関」とは、単に “同じ方向に見える現象” を示すに過ぎない。

♣ たとえば 図 1 の 「身長を伸ばせば賢くなれるんだー ! ! 」 では、「身長と学力」は明らかに「相関」しているけれど、それは 身長が 「小学一年生( 125 cm)が高校生 ( 170 cm) になったから」 と解釈すべきである――これを 「学力のある人は背が高い」、と 逆方向の解釈するのは間違いだ。原因・結果 は「主従関係」(X軸 → Y軸)であって、その逆関係は成り立たなたない。
風桶

♣ また、状態の説明を安易に因果関係で結びつけるのも要注意だ。むしろ、 政治家・官僚・上司などは わざと両者を混同 して、自分の意見を押し通すこともあるほどだ。

♣ ここで、別な病気: 「糖尿病」 を考えよう:―― 日本では糖尿病の 95 % は 「食べ過ぎ糖尿病」 だ、つまり自己責任 (内因性) が 95 % なのだ。自分で過食という原因を作っておいて、「公費」= 健康保険で治療を受けたい … それは あたかも「内因性の病気」なのに、「外因性」とこじつけて、公(おおやけ)の費用で治療するように「不合理」なことではなかろうか? タバコ と 肺癌の関係 も微妙なところがある。

♣ そもそも 「老齢者の健康維持」 は もはや遺伝子の役目ではなく、本人の 「知恵と注意」 だけが頼りなのである。もし 100 歳 のご婦人がトイレの中での転倒・骨折された場合、他人のせい(外因性)であるかの如き解釈をするのはたいてい間違いだろう。

♣ 日常的な介護の仕事でも 似たようなことが発生する――ご利用者の 誤嚥・異食・ずり落ち・転倒」 などで、内因と外因の判断を混同して、介護者が ”切ない思い” をさせられることは少なくない !!

♣ その上、たとえ内因と外因が区別できたとしても、老人の場合、「万年目の亀(老齢) という要素が主因であって、事故は単なるきっかけに過ぎないこともある。 2 ) 
風桶

♣ しかし 内因・外因の区別 を意図的に混同したのでは あなたの「品位」に関わる――だから因果関係が明瞭である場合には それを、第三者にもわかるように 丁寧に説明しよう。

♣ そのためにも、記録・「ヒヤリハット・レポート」 を的確に残し、ホウレンソウ 3 ) をしっかり行おう。標題に挙げた 「風桶」 の滑稽な強弁を避け、事実をしっかりと見極める姿勢を示そうではないか。 

要約:   相関関係とは単に二つのことが同時に観察されるだけのこと(= 風桶)、因果関係は二つのことに 「主従関係」 がある事を示す。 この「相関」「因果」の関係を、間違って 又は意図的に間違えることは 介護の世界でしばしば発生し、弱い立場の人を苦しめる。 因果関係とは X → Y の関係が絶対に逆方向にならないことを肝に銘じて置くべきである。

参考: 1) これは日本の落語の諺(ことわざ)で、その意味は: 風が吹く→ 埃 (ほこり) がたつ → 埃が目に入って、盲人が増える → 盲人は三味線を買う(当時の盲人がつける職に由来) → 三味線に使う猫の皮が必要になり、猫が殺される → ネコが減ればネズミが増える → ネズミは桶をかじる → 桶の需要が増え 桶屋が儲かる ―→ これは 原因と結果をムリにこじつけて滑稽に表現した相関関係に過ぎない … 桶屋が儲かっても風は吹かない ... つまり何も原因・結果を説明していない。 2 ) 新谷:「万年目の亀」; 福祉における安全管理、 # 1, 2010. 3 ) 新谷:「ホウレンソウ」; ibid # 148, 2010.
 
職員の声

声1: 特養では ご家族に「転倒・骨折」の報告をするのが一番辛い(答: “あんたの責任だ ! ” と断じこまれても、前後の様子を率直に説明しよう…因果関係で 正直であれば弁護士も保険会社もあなたの助っ人に必ずなる)。

声2: 相関関係があるだけなのに、「風桶」 の因果関係で事態を混乱させては間違いの元となる(答: 認知症では因果関係のない突飛な行動がしばしばあり、それをあたかも因果関係ありと結び付けては正しい答が出ない)。

声3: 今の麻生・財務大臣が数年前に 「生活習慣病で医療に掛かる人はペナルティを課すべき」 と発言してマスコミに叩かれた … でも、因果関係で見直せば、あながち間違いではなかった !(答: 政治家は 理非に拘わらず国民の味方をするべき、との思いで マスコミは麻生大臣を叩 いたのだろうが、その点、マスコは国民に迎合したのである)。

声4: 認知症薬は無効である と最近分かってきたのに なにしろ関係者にとっては ドル箱、日本では販売が続く(答: 認知症薬は 従来 「風桶」の論理で有効と認められていたが、今回 因果関係で 「薬効なし」 との成績 並びに臨床上の実感が発表された … よってフランス・アメリカはそれを中断 する。しかし 日本はクスリ好き、どうなることか?)。

(687)  百 寿

(687) 百 寿

近年の日本は “高齢化” の掛け声が大きく、100 歳と聞いても あまり驚く人はいない。

♣ 100 歳の記録が始まったのは 1960 年の 150 人からであり、その後 着実に年々増加しており、今では総数 6万7千人、500 倍近くの増加である (図 1)。この傾向は今後も続き 30 年後には 60 万人を越えるだろうと予想されている。

(687) 100 歳

♣ 日本、こんなに増えて大丈夫なのか?と不安を洩らす人々もあるが、図 2 をご覧あれ … これは 100 歳を越えた人々の 自然経過 を示し、現実には 107 歳で実質ゼロ人になっている。つまり、100 歳までの人口は急激に増加してきたが、100 歳を越えると同じく急激に減ってくるものであり、あたかも人間の天寿の上限が “100歳ちょっと越え” であるかの如き現象を示す。

100寿

♣ 別な言葉で言えば、なるほど百寿の数はビックリするほど増えてはきたけれど、下図 3 の “年齢別人口図” の 100 歳の領域を確かめて見られよ ! (横軸は年齢、縦軸は人数) 。高齢化社会とは言うけれど、壮年期の大面積に比べて 百寿が占める領域は “面積を持たない” ほどの細い 「線」 なのである 。実数の人口で言えば、65 歳は 220 万人・ 100 歳は 2 万人、つまり 65 歳の人 100 人のうち 1 人だけが 100 歳になれるのだ。これは臨床的な経験とほぼ一致する。

100 歳

♣ 上記の 図 3 を振り返って見直して欲しい。“もっと長生き” ということは、右端 100 歳の位置を更に右側に引き延ばしたい、という願いである。すでに 図 1 と 図 2 で述べたように、100 歳までの人が今後 増えることは避けられないが、100 歳を越えれば数年の内にその人口はゼロに近づく。ゼロを更に右に引き延ばして どうなるものか?今の位置 ...それこそが我々の遺伝子に嵌めこまれた 「長寿の限界」 なのであろう 1 ) 。これが変更されるようなことは今後とも起きるとは思えないが、皆さん方はどう思われるか?

100 歳

♣ ならば せめて望めることは、限られた 100 歳の内で快的に健康な日々を増やすことであろう。これを図で示せば、図 4のようになる … 人々の平均寿命は男女で異なり、それぞれの寿命は “健康寿命と介護寿命” に分けられる。

健康寿命とは、各個人が自覚的に 「自分は元気だ」 と評価できる人生であり、高血圧や糖尿病などがあっても普通の日常生活ができれば、それは健康寿命である。介護寿命とは、言葉通りに 「介護保険」 の適応を受けている人、または 脳卒中・重症心疾患・リウマチなどの特定疾患を持つ人とされる。

♣ この図式で判断すれば、介護寿命を出来るだけ減らし、その分を健康寿命に繰り込むことができれば、人生は快適になるハズ。長命な女性の例でいえば(図 4 の下半分)、要介護寿命が 12.4 歳というのは長すぎないか?これを半分に縮めて 6.2 年とし、その分を健康寿命に移せば 74.21 + 6.2 = 80.4 歳の 豊かな健康寿命が得られる。
100 歳
♣ でも、こんな算術が実生活で可能だろうか? そこで 図 5 を見よう。これは女性の場合の 「平均寿命と健康寿命の関係」 を示す。時代と共に 平均寿命と介護寿命は少しずつ延びたが、両者の間に介在する介護寿命の 12.2 歳はナゼか不変なのだ ! 男性の分析でも同様で、ほぼ 9 歳は不変である。

♣ つまり、時代と共に 平均寿命も健康寿命も延びる のに、その際 人々の希望に反して、要介護寿命は減らない のだ ! 換言すれば、「超長生きは 平均 9 ~ 12 年の介護期間なく しては成り立たない」 ... これが冷酷な現実である 2 )

♣ このことを 図 4 で見つめ直すと、健康寿命(黄色) と 要介護寿命(赤色)の間にある 「仕切り」 は、このままでは、右にも左にも動かせないのだ。仮に、女性の命が 延命処置 などで 延びて 86 歳から 100 歳になった時でも、延びる命 は 当然のことながら 介護寿命 (赤色)だけであり、健康寿命 (黄色)が増える理由は何もない。

♣ 戦前には介護保険は無かった … だから今も 「努力すれば要介護寿命(赤色)を減らすことが出来る」 とあなたは思うかも知れない。それの実現のためには、 昔のように 更年期過ぎで 医療・介護の助けを借りず 早々とポックリ逝けば、要介護寿命を減らすことは出来る。だが、世の中には 「病気は このままでもいいから 長生きさせて頂戴」 という人が大多数ではないか?、

♣ 「百寿 は長寿のシンボル」 であり、過去半世紀の間に 500 倍近くもの増加があって、刮目 (かつもく) に値する現象であった。ところが、こんなに素敵な百寿ではあっても、107 歳になれば 「そよ風」のように消え去ってしまうものなのだ(図 2)。だって、百寿になれば もう ライオンの 3 倍以上もの命を稼いだ訳でしょうに?3 )

♣ しかし、ライオンの現実と矛盾するようだが、人々は たとえ「そよ風」であっても 百寿の夢を追い求める。 なぜなら もともと日本の介護保険は介護寿命をできるだけ長くするように設計された「手厚い」制度だからである。

要約:  百寿の歴史的 “盛衰物語” を示し、人生全体から見た 100 歳の位置を視覚的な図で見つめた。 健康寿命を増やし、介護寿命を出来るだけ少なくすることが重要だと言われているが、現実には寿命を プラス・マイナス の算術 で組み立てることは困難である。 百寿の人口は微々たるものであるが、それでも 長い「要介護期間」の工夫があったからこその 貴重な賜物 なのであろう。

参考: 1 )  新谷:「普通の百歳とは?」; 福祉における安全管理 # 636. 2017.  2 ) 新谷:「介護寿命を縮める」; ibid # 676, 2018. 3 ) 新谷:「 3 倍では まだ不足か?」 ; ibid # 665, 2018. 

職員の声

声1: 100 歳になると もう 余命 はどれほどもないけど(答: 100 歳の平均余命は「 2.5 年」 ... でも 107 歳まで生存する人もある(図 2 ) 。人は、一升瓶のお酒を 底まで飲み干しても まだ よそのお酒を飲む力を持つ)。

声2: 1990 年代の 「キンさん・ギンさん双子の100 歳」 は日本中の人気者だったが、今では百寿が 6 万 7 千人、これも介護保険のお蔭か?(答: 私費の予算で 百寿を 維持すれば「孫」へあげる予算は枯渇 しちゃうよ)。

声3: 加齢に病気は付き物、元気な100 歳とはまさに 「介護の塊」 だ (答: 国 も社会も、最近は “介護期間” を短縮するのが望ましい、としている … つまり介護に精を出せば、介護期間 も予算も増え、もっと悩ましいことに 認知症は進むばかりだからだ ... あなたなら どう したい?)。

声4: 健康寿命は 74 歳、もっと長くしたい人は 中年の 頃、“生活習慣病” の原因を断てば可能 ... つまり健康な長寿は本人の選択次第だ(答: 飲んで 吸って、食って 遊んで … その上 長い寿命、というシナリオは無理っぽいということ)。

(683) 天 寿 と は 何 だ ろ う ?

 (683) 天 寿 と は 何 だ ろ う ?   

 あらゆる生命・社会科学の目的は、終局的に煮詰めれば 「寿命を長くすること」 であろう。

♣ では、寿命 (life span) とは何か? それは 「出生の時点で遺伝子に与えられた生存期間」 と言えば良かろう。要するに寿命と言えば 「自然死」 の時期を意味し、その点を強調して「天寿」と呼ばれることもある。

♣ そもそも全ての生物は 「子を産み終わったら死ぬ」 という自然のサイクルの特徴を示す。その年齢はおよそ体格のサイズによって決まっている。遺伝子を子孫に渡し終ったら、自分は景色の中からサッサと去り、その後に「老年期」はない … だから、動物の天寿は分かりやすい(図 1)。

天寿とは何だろう?

♣ しかし人間だけは例外だ1 ) 。縄文・弥生時代の昔であれば、ヒトは体格の似たライオン並みの 30 歳 あたりが寿命の限度であった。文明・文化が進むにつれ、~ 50 歳 まで延び、さらに 「衣食住」 足りた上に 「電水熱」 のインフラが整うにつれ、更年期の後に 長い長い 「老年期」 を持ち、バラバラの年齢で世を去ることになる。このバラツキの幅が広いため、寿命が何歳だとは一概に言えなくなってきた。そこで人間の寿命の範囲として、その 「下限と上限」 を定めてみるのが必要となる 2 )

♣ まず 「天寿の下限」 とは「多くの人が希望する命の最低年限」としよう。古代は別として、平和な江戸時代ではせめて「更年期の 50 歳ころ」までは生きていたいと望まれた。その根拠は、江戸時代の 「天皇・将軍各 15 代」 の寿命が参考にされる。江戸~明治までの計算で 3 )、 天皇 49.4 歳 (22~85歳) ・将軍 51.5 歳(8~77歳)である。

♣ つまり、天皇や将軍でさえ寿命は 50 歳前後なのだ。ましてや、一般市民の寿命はこれ以上を望むのは無理だった。つまり天寿の「下限」は5 0 歳頃であった、とみられる。

♣ これに対して、「天寿の上限」はどうか? 検討対象として「現在 100 歳」の方々の心身状況の観察してみる。年齢が 100 歳に向かうと、視力・聴力・残歯の数・血液アルブミンは生命維持には不向きなほどに低下、摂食・排泄・入浴・歩行 に問題が発生、認知症は不可避となる 4 )

♣ 人は長生きの「夢」を まず 100 歳に置くが、実際に 100 歳の人の「姿」を見ると「おや?」と躊躇(ちゅうちょ)する。還暦( 60 歳)レベルの人ならまだ心身ともに元気だが、米寿( 88 歳)では 明らかに老化が進み、白寿( 99 歳)では仲間の 99 % は死去してしまう。つまり人の寿命の上限を 100 歳と見れば十分過ぎるではないだろうか?

♣ 次に、寿命を 「個人の年齢」 レベルから 「大人数の人口年齢」 レベルで寿命の病態を見てみよう。図 2 は数カ国の代表的な 「人口ピラミッド」 である。各図の頂点は 100 歳、底辺は 0 歳、左右は男女の相対的な頻度である 5 )

天寿とは何だろう?

♣ ピラミッドの図を 100 歳の頂点から少し下へ辿ってみると、男女ともに 「屈折」 (角 かど)が見える。その屈折が見られる年齢を 「屈折年齢」 と呼び、その値は各図の下方の数値として示されている。この図の読み方の詳細については 「屈折年齢と福祉」 5 ) で述べたので参考にして欲しい。

♣ 各国の寿命をみれば、0 歳から上に登って屈折年齢までの人口はあまり喪失していなく、しかし、一旦 屈折年齢に達すると 100 歳に向かって直線的に漸減する特徴がある。

♣ したがって先進国の屈折年齢 (70 歳近辺)が ある意味で「寿命の曲がり門」 と理解できるのではないか? 換言すれば、70 歳まで人口は あまり間引かれずに生存できる 「天然の生存枠」 だとみられよう。70 歳を越えると人はそれぞれの環境の中で、天寿に応じて他界し始め、100 歳に至るのだ。

♣ この 70 歳頃という年齢は W.H.O.が説明する 「平均寿命 ~ 健康寿命」 の模式図で 、先進国の「健康寿命は ほぼ 70 歳」 6 ) に たまたま良く一致している (これより後は ”要介護寿命” ) ―― つまり近年、人々は屈折年齢まで安定した健康な生活し、それを越えれば、体質などに応じて、天寿の最高値 ≒ 100 歳を目指して世を去って行くのではなかろうか。

♣ 天寿とは誰かが決めるものではなく、動物としての人間の天寿は 30 歳ころ、「衣食住」の獲得とともに 50 歳ころになった。加えて「電水熱」のインフラ拡充の現代になって、天寿の幅は 50 歳~100 歳となり、その中央値は 先進国で 70 歳 (屈折年齢) になったのではないだろうか。特記したいことは、日本の老人が ことさら長生きになったのは、医療・介護のほか「冷暖房」のおかげである、とは決して言い過ぎではないだろう。1797字

要約: 人の天寿とは誰かが決めるものではなく、動物的な観察と心身の生理的な実態を睨み合わせて決まるものであろう。  天寿には個人的な幅が認められ、下限は 50 歳ころ、上限は 100 歳を越えないと思われる。 個人ではなく、多数の人口の健康寿命は 先進国で70 歳ころ (屈折年齢) と推定され、それ以後は、個人の個性によって天寿は変動している。

参考: 1 ) 新谷:「命の設計図」: 福祉における安全管理 # 633, 2017. 2) 新谷:「命の歩幅」;ibid # 620, 2017 (1600 年から明治まで = 後水尾天皇から明治天皇の 15 代。徳川家康から徳川慶喜の 15 代)。 3 )  新谷:「普通の百歳とは?」、ibid # 636, 2017. 4 ) 新谷:「屈折年齢と福祉」、ibid # 579, 2016. 5 ) 新谷:「要介護期間を短縮する」;ibid # 676, 2018.

職員の声

声1: 天寿とは神様から頂いた寿命だろう、人があれこれして追加した寿命は含まれないのでは?(答: 賛成 … つまり天寿とは健康寿命だけと見るべきだ ... 医療・介護による長命は別口で、これは「要介護寿命」と呼ぶ)。

声2: 真の意味で 「天寿を延ばす」 とは、子孫を残せる期間 (更年期) を延ばすことではないか?(答: 70 歳になっても子を育成できれば(徳川家康のように)、それは万人の認める天寿と見て良いだろう)。

声3: 愛玩用の犬猫の飼育寿命が天然寿命より 2 倍 も長いように、人間だって 「介護された寿命」 だからこそ 100 歳まで行くのだろう(答: まったく その通りだ、人間を介護する社会態勢が乏しかった戦前の寿命は 50 歳前後だったものな)。

声4: 大型のワニやヘビは大きくなり過ぎるとエサを取れなくなって死ぬ、と聞いたが、もし人間のように介護と食事ケア付きであれば 100 年位の長生きをするか? … (答: Yes ! でも それはきっと子も産まず活動もしない 算数的な 100 年だろう――人間もそうだが、やはり寿命と言うからには 「生命サイクル」 が有ってこそ、天寿と言えるのではないか)。
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Author:ふじひろパール
「ふじ」=新谷冨士雄
「ひろ」=新谷弘子

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