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(31) ボケ勝ち

 前回の安全管理(30)で、「時 所 人」についてお話ししました。「時 所 人」を失った状態を「見当識の喪失」と言うことを覚えていますね。この状態が持続していることを「認知症」と呼びます。私どもは歳をとると、黒髪がゴマシオになり、白くなり、その量は減り、ついにはハゲになります:これって病気なのか、加齢現象なのか? どっちともいえます。“命に関わらない”という意味では、病気と呼べないかもね。

♣ これと似た状況で、歳をとると大脳の神経細胞が平均の人よりも強く減って、日常生活に支障がくる場合があり、これは認知症と呼ばれます。加齢そのものは病気ではありませんが、日常生活に支障がくるという点で病気のほうに分類されています。おかしいですね。病気の定義は簡単でありませんが、“歳をとったらみな病気”というのは変です;高齢者が増えてきたので、何かその実態にそぐうような 新しい名称を工夫すべきです(たとえば、健康→健老→病老など)。

♣ 多くのお年寄りは「健老」です。問題になるのは、一部の方が、日常生活の支障を認識し、それを不足・不満・苦痛とし、先行きの死を恐れおののくという気分です。そこで皆さんがたに お聞きします:皆さん方は、認知症の方々をお世話して、「可哀そう」と思うことがありますか?

♣ ここで話しを変えましょう。19世紀のスコットランドに貧乏な詩人 ロバート・バーンズという人がいました。彼の「もぐらへ」という詩を紹介します。彼が畑を耕している時、誤って鍬(くわ)で「もぐら」の通り道を壊してしまいました。彼はもぐらへ謝り、次の詩を書きました:

     それでも、おまえは、私と比べれば幸せさ 
          おまえが知るのは今のことだけだ 
     ところがどうだ、私は過去をふりかえり
           恐ろしい情景を眺める
     そして、先のことは私にもわからないから
          想像して、怖れるのだ

♣ 人間以外の動物は、ひたすら現在の刹那(せつな)のみに生きます。人間以外の生物には、過去と将来の認知ができず、自分がいつか必ず死ぬ運命にあることも予想できません。人間だけが生命の有限さを自覚し、それゆえに人間だけが有限の生命と幸せを持つのです。

♣ 認知高齢者ケアをしていると、自分は普通の「人間」で、相手が、上で述べたバーンズの言う「もぐら」に相当するのかな?と思うことがありませんか?この場合、幸せなのはどちらだと思いますか?「ボケ勝ち」という言葉がありますが、私には認知症の方々のほうが「勝っている」ではないか、としばしば感じます。だって彼らは、なるほど日常生活に不自由があるかもしれませんが、それを“苦にすることはありません”、と言うより、分からない、というべきでしょうか。

♣ おなじ苦しみであっても、過去に経験した恐ろしい苦痛、将来来たるべき未知の恐怖;正気の人なら、みな不安を持ちます。高齢認知症では、それがない!有難いことです。私は「ボケ勝ち」を大事にしたいと思います。もし、二人の“連れあい”のうち、一人が先にボケてしまえば、ボケたほうが先行きの不安から解放されます。それって一種の「勝ち」ではないでしょうか?私は「ボケ勝ち」って、いいものだな、と思うこのころです。

職員の声

声1: 私は認知症の人は「可哀そう」と思っていました;しかし私の祖母は認知症で、嬉しそうに同じ話をします、ほんとうは「幸せ」なのだと知りました。

声2: 体は寝たきり、しかし頭はしっかりのご利用者、「私はボケたら死にたいよ」とおっしゃいます(係り:大丈夫、ボケたら、死ぬ不安を忘れます)。

声3: 「ボケは苦しみを和らげるためにある」と聞いたことがありますが、私はボケずに、周りの人に感謝しながら死にたい(係り:目的があってボケるのではなく、あくまで自然なボケの効用を、そのように解釈したのですね)。

声4: 「あんなお年寄りになりたい」と職員同士で話すことがあります。つまり「あこがれの高齢者」があるのです(係り:20人に一人くらいの割で、そんなお年寄りがおられます)。

声5: 人間だけが生命の有限さを自覚する、だからこそ、ひと時 ひと時が大切で、また、それが幸せの源になるのですね。
プロフィール

ふじひろパール

Author:ふじひろパール
「ふじ」=新谷冨士雄
「ひろ」=新谷弘子

社会福祉法人 パール
安全管理 ふじひろのページ

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