(684) ど こ で 逝 き た い の ?
(684) ど こ で 逝 き た い の ? →
近年の日本では、出生者と死亡者の均衡がとれ、小差はあるものの、いずれも毎年 約 120 万人前後だった。
♣ 総人口 1.2 億人のうち「毎年約 1 % の 120 万人が入れ替わり、100 年で一回りする」と理解すれば分かり易い。これは「逝った数だけ補充される 「健康な現象」 でああった 。「多死時代」 とか 「少死時代」 という表現はマスコミが煽っているだけで、何の騒動でもなかった。
♣ そして 老人の逝き場所 は、60 年前までは先祖代々の習慣通り、在宅以外はほとんど考えられなかった(病院・自宅の比率が「1 割: 9 割」 、図 1 )。ところが、バブルの真っ盛りの 1970 年代、在宅死は著しく減って日本人の多くは病院で死を迎えるように生活スタイルが一変し、逝き場所は 在宅:病院の比率が「 5 割: 5 割」に転じた。

♣ さらに、その 20 年後の介護保険が始まった 2000 年には 想像を絶する比率、つまり在宅死が著しく減って、病院:在宅の比率が「9割: 1 割」へ、つまり 60 年前の比率の裏返しになり、日本の老人は ‘主に’ 病院で逝く社会になってしまった。ほんの半世紀の間で、天 と地が入れ替わるほどの変化 ! ここに 日本社会の病理 がある訳であって、このことは後半で検討しよう。
♣ なぜ老人は自宅で逝かななくなったのか? 厚労省はこの傾向を不満とし、在宅死は新しく 4 割を目標に増やさなければ、病院が満員となって、「年寄りの逝き場所が確保できなくなる」と考え、看取りの場所を自宅へ戻すよう誘導した。その根拠として、(イ) 成人を対象にしたアンケートで 6 割の人々が自宅で逝きたい、(ロ) 厚労省のガン終末期アンケートで、自宅で逝きたい人も 6 割であった。よって、自宅死の割合を 4 割程度に設定しよう、というものである。
♣ しかし、肝心の 「老人」 はどこで逝きたいと思うのだろうか? ――そんなデータはない。ただ言える事は、自宅死を勧められても、現実には不可能であろう。その 理由を四つ ほど述べれば:―― ① 一人暮らしは 40 年まえから 7 倍も増えたし、今後も女性を中心にどんどん増える (図 2 ) 。女性は男性より長生きだから、それは避けられないけれど、どうしたら一人暮らしの女性は自宅で逝けるのだろう?

♣ ② 男女共、本当の希望は自宅で看取られたいが、少ない人手間を考えて 家族に気兼ねする。
♣ ③ また、近年の病院死では、自宅ではできないような 「延命の儀式・処置」 が輻輳し、何となく 気が休まる。これは 「薬石 (やくせき) 効なく死に至った」 という安堵感に繋がる。
♣ ④ しかし最大の理由は、なにせ保険が効くので病院は 「自宅の見送りに比べれば 著しく安あがり」 、その上 「世間体」 も悪くないから人気が高い、のである。特に近年、死が近づくと 「検査や治療処置」 は控えられ、医療費は主に「観察代」だけの少額になるのも有難い。
♣ 他方、病院は「病気を治す場所であって、逝く場所ではない ! 」 と説明されているし、病院での老衰死は “自粛” されるべきだ、という主張もあり、これは もっともなことである。だが、ここにこそ 隠された問題があるのではないか?
♣ つまり、人は歳をとるにつれ 「どこで逝きたいか?」 の質問に関心を示さなくなる。なぜなら、老人性認知症によって「見当識障害」 1 ) が現れ、将来のことが理解できず、「現在の刹那 (せつな) 」 のみが大事になるからだ 2 ) 。
♣ その上、死亡時の年齢がすっかり変わった … 昔は人生 50 年、還暦前後で世を去ったが、今ではそれが 90 歳に近い。その分、見送る側の年齢も中年から老年になり、体力・世間力 も低下し、自宅では送れなくなった。超高齢の現代、逝き場所は、逝く人が決めるものではなく、見送る人の年齢と気力で自然に決まってしまうようだ。
♣ さて、仮にガンによる死亡の場合なら、その 「終末期」 は比較的短期間であるし、本人の希望も傾聴しやすい。だが多くの高齢認知症の場合、いつが終末期なのか予想が困難だ … 終末期は 1 年から 10 年以上の先にわたる。

♣ 日本は戦後 30 年間 自宅でお看取りをしていたのだが、諸外国でも高齢者の逝く場所の問題は “案外に” あるのであって(図 3 )、病人の身になって考えれば簡単には解決しない問題なのかも知れない。
♣ 人は生まれる時は大変であるが、逝くときは もっと “大変” なのであり、手を抜くべきではなかろう。厚労省も一般の国民も、死ぬ時の 「ヒト・モノ・カネ」 を惜しんではならず、安易に在宅死を奨めても、その流れを変えるのには大きい工夫が必要である。1907字
要約: ① 介護保険が始まった 2000 年以後、病院での死亡が 10 % から 90 % に跳ね上がったことは良く知られている。 ② その原因は 「ヒト・モノ・カネ」 の経費高騰のほか多数が挙げられているが、逝く人・送る人の高齢化も大きな要因であろう。 ③ 先進諸外国における病院死の比率は日本の半分程度であるから(図 3 )、そこまでを当座の目標としては如何であろうか。
参考: 1 ) 新谷:「中核症状は蛙に似る?」; 福祉における安全管理 # 640, 2017. 2 ) 新谷:「ボケ勝ち」;、ibid # 31, 2010.
近年の日本では、出生者と死亡者の均衡がとれ、小差はあるものの、いずれも毎年 約 120 万人前後だった。
♣ 総人口 1.2 億人のうち「毎年約 1 % の 120 万人が入れ替わり、100 年で一回りする」と理解すれば分かり易い。これは「逝った数だけ補充される 「健康な現象」 でああった 。「多死時代」 とか 「少死時代」 という表現はマスコミが煽っているだけで、何の騒動でもなかった。
♣ そして 老人の逝き場所 は、60 年前までは先祖代々の習慣通り、在宅以外はほとんど考えられなかった(病院・自宅の比率が「1 割: 9 割」 、図 1 )。ところが、バブルの真っ盛りの 1970 年代、在宅死は著しく減って日本人の多くは病院で死を迎えるように生活スタイルが一変し、逝き場所は 在宅:病院の比率が「 5 割: 5 割」に転じた。

♣ さらに、その 20 年後の介護保険が始まった 2000 年には 想像を絶する比率、つまり在宅死が著しく減って、病院:在宅の比率が「9割: 1 割」へ、つまり 60 年前の比率の裏返しになり、日本の老人は ‘主に’ 病院で逝く社会になってしまった。ほんの半世紀の間で、天 と地が入れ替わるほどの変化 ! ここに 日本社会の病理 がある訳であって、このことは後半で検討しよう。
♣ なぜ老人は自宅で逝かななくなったのか? 厚労省はこの傾向を不満とし、在宅死は新しく 4 割を目標に増やさなければ、病院が満員となって、「年寄りの逝き場所が確保できなくなる」と考え、看取りの場所を自宅へ戻すよう誘導した。その根拠として、(イ) 成人を対象にしたアンケートで 6 割の人々が自宅で逝きたい、(ロ) 厚労省のガン終末期アンケートで、自宅で逝きたい人も 6 割であった。よって、自宅死の割合を 4 割程度に設定しよう、というものである。
♣ しかし、肝心の 「老人」 はどこで逝きたいと思うのだろうか? ――そんなデータはない。ただ言える事は、自宅死を勧められても、現実には不可能であろう。その 理由を四つ ほど述べれば:―― ① 一人暮らしは 40 年まえから 7 倍も増えたし、今後も女性を中心にどんどん増える (図 2 ) 。女性は男性より長生きだから、それは避けられないけれど、どうしたら一人暮らしの女性は自宅で逝けるのだろう?

♣ ② 男女共、本当の希望は自宅で看取られたいが、少ない人手間を考えて 家族に気兼ねする。
♣ ③ また、近年の病院死では、自宅ではできないような 「延命の儀式・処置」 が輻輳し、何となく 気が休まる。これは 「薬石 (やくせき) 効なく死に至った」 という安堵感に繋がる。
♣ ④ しかし最大の理由は、なにせ保険が効くので病院は 「自宅の見送りに比べれば 著しく安あがり」 、その上 「世間体」 も悪くないから人気が高い、のである。特に近年、死が近づくと 「検査や治療処置」 は控えられ、医療費は主に「観察代」だけの少額になるのも有難い。
♣ 他方、病院は「病気を治す場所であって、逝く場所ではない ! 」 と説明されているし、病院での老衰死は “自粛” されるべきだ、という主張もあり、これは もっともなことである。だが、ここにこそ 隠された問題があるのではないか?
♣ つまり、人は歳をとるにつれ 「どこで逝きたいか?」 の質問に関心を示さなくなる。なぜなら、老人性認知症によって「見当識障害」 1 ) が現れ、将来のことが理解できず、「現在の刹那 (せつな) 」 のみが大事になるからだ 2 ) 。
♣ その上、死亡時の年齢がすっかり変わった … 昔は人生 50 年、還暦前後で世を去ったが、今ではそれが 90 歳に近い。その分、見送る側の年齢も中年から老年になり、体力・世間力 も低下し、自宅では送れなくなった。超高齢の現代、逝き場所は、逝く人が決めるものではなく、見送る人の年齢と気力で自然に決まってしまうようだ。
♣ さて、仮にガンによる死亡の場合なら、その 「終末期」 は比較的短期間であるし、本人の希望も傾聴しやすい。だが多くの高齢認知症の場合、いつが終末期なのか予想が困難だ … 終末期は 1 年から 10 年以上の先にわたる。

♣ 日本は戦後 30 年間 自宅でお看取りをしていたのだが、諸外国でも高齢者の逝く場所の問題は “案外に” あるのであって(図 3 )、病人の身になって考えれば簡単には解決しない問題なのかも知れない。
♣ 人は生まれる時は大変であるが、逝くときは もっと “大変” なのであり、手を抜くべきではなかろう。厚労省も一般の国民も、死ぬ時の 「ヒト・モノ・カネ」 を惜しんではならず、安易に在宅死を奨めても、その流れを変えるのには大きい工夫が必要である。1907字
要約: ① 介護保険が始まった 2000 年以後、病院での死亡が 10 % から 90 % に跳ね上がったことは良く知られている。 ② その原因は 「ヒト・モノ・カネ」 の経費高騰のほか多数が挙げられているが、逝く人・送る人の高齢化も大きな要因であろう。 ③ 先進諸外国における病院死の比率は日本の半分程度であるから(図 3 )、そこまでを当座の目標としては如何であろうか。
参考: 1 ) 新谷:「中核症状は蛙に似る?」; 福祉における安全管理 # 640, 2017. 2 ) 新谷:「ボケ勝ち」;、ibid # 31, 2010.